BL◆父の肖像
3 − 09 − * * * 蝉の声が聞こえた。 市村から呼び出しを受けた拓見は、ひとけのない放課後の廊下を、美術準備室へ向かって歩いていた。 以前にも何度か声をかけられたが、これまで拓見はずっと無視を決めこんでいた。だが今日は、会ってやってもいいかなという気になったのだ。彼らがどんな言い訳をするか、そろそろ聞いてやってもいい時分だ。 そう思ったのは、本格的になってきた夏の暑さのせいかもしれない。 市村は準備室の奥で、入口に背を向けるようにして立っていた。 拓見は黙って戸を閉めると、部屋の中ほどまで進んで立ちどまった。 「なんの用ですか」 聞こえなかったのかと思うほど長い時間がたって、ようやく市村は振りかえった。 「成島……」 市村は感情を含まない声で言った。赴任してきて約二か月、最近では彼もほかの教師同様、生徒を呼び捨てにするようになっている。 「最近、家にほとんどいないようだな。……どうしてだ?」 「ちゃんと毎日帰ってます」 拓見は挑発するように言った。 「学校にも毎日来てます。何か問題があるんですか」 市村は、拓見に似た顔をかすかに歪めた。 「やっぱり……あれが原因なのか?」 「あれってなんです」 「だから……」 市村は片手で顎のあたりをこすった。 「おまえのお父さんに……キス、したこと」 「父とはそういう関係だったんですね」 拓見が冷ややかに言いはなつと、市村は黒目の大きい目をぱちぱちさせて言った。 「それは誤解だ」 「何が誤解なんです」 「おまえが思っているような関係はなかった」 拓見は沈黙した。あのときの光景を思い出し、いまの市村の言葉の意味を考えてみる。 「信じられませんね」 やがて拓見はゆるゆると首を横に振った。 「嘘でしょう? 二人は恋人同士だったんだ。でも何かの都合で、別れなければならなかった。違いますか?」 市村の答えが返ってくるまで、少し時間がかかった。 「言っている意味が、わからない」 市村はのろのろと言った。 「成島……おまえはいったい、何を根拠にそんなことを考えたんだ?」 市村は本当に当惑しているように見えた。拓見は確信がぐらつくのを感じたが、あえてそれを表に出さず、冷たい表情で市村の目を見返した。 「おまえは……」 市村は唇を舌で湿らせてから言った。 「お父さんが同性愛者だと思って、それでショックを受けたのか? それなら心配ない、お父さんはふつうの男性だ。その証拠に、ちゃんと女性と結婚して――おまえが生まれた」 その語尾が揺らめいたのを、拓見は動揺ととった。 「そんなこと、証拠になりません。父はたしかにあなたのことが好きだった。だから母と結婚したんだ……あなたに似た、母と」 市村は少なからず衝撃を受けたようだった。彼は何か言おうとして口を閉じ、もう一度開いた。 「だが……彼はふつうの男性だったはずだ」 喉の奥に何か詰まっているような、奇妙な声だった。 拓見と市村はしばらく、互いを探るように無言で見つめあった。それから市村が目をそらした。 「たしかに僕は」 彼は意外にしっかりした口調で言った。 「成島――昭義が好きだった。自分に同性愛の傾向があるのかどうかはわからない。ただ当時は、彼のことが好きで、彼のことしか目に入らなかった」 市村はそばにあったテーブルに片手を置き、珍しいものでも見るようにじっとそれを見た。 「彼のほうでも、僕を好いてくれているようだった。でもそれは、あくまでも友人としてのことだったんだ。僕は思いあまって告白し、そして彼は……僕を軽蔑した」 沈黙がおりた。ややあって、拓見が続きを促した。 「……それで?」 「それだけだ」 市村は何かを振りきるように顔を上げた。 「彼は僕の前から姿を消し、僕はこの学校に来るまで、彼の消息はいっさい知らなかった」 「それで母は?」 拓見はさりげなくきいたつもりだったが、望んだような反応は得られなかった。市村はぼんやりした目を拓見に向け、ゆっくり口を開いた。 「……お母さん? お母さんがなんだって……?」 「その話の中で、母はどこに登場するんですか? 母はあなたや父と、どういうふうに関わってくるんですか?」 「何も……」 市村は頼りなげに首を横に振った。その様子は心底当惑しているようでもあり、無理に感情を押しかくしているようでもあった。 「何もないよ、いったい……」 その心中を押しはかろうとして、拓見はすぐに諦めた。相手は自分よりはるかに経験を積んだ大人なのだ。顔色を見ただけで何かがわかるとは思えない。 「……わかりました」 拓見は反抗的な態度をひっこめて言った。 「僕の質問はそれだけです」 唸るような吐息が市村の口から漏れた。 「成島……」 彼は何かに怯えてでもいるかのような目つきで言った。 「お父さんは悪くない。だから……」 拓見は感情のこもらない声で答えた。 「わかりました。努力します」 それから市村に背を向けて、出口へと向かった。 |