BL◆父の肖像
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エピローグ
− 04 −
 鉛筆と紙がこすれあう、聞きなれた音を背にしながら、拓見は椅子に腰かけて窓の外を見ていた。
 父子間の交流が回復して以来、拓見はふたたび絵のモデルをするようになっていたが、この日は拓見のほうからなかば強引に申し出たのだった。
 昭義はそれについてとくに問いただすことはしなかった。てきぱきとポーズを指示すると、大きなスケッチブックを広げて、すぐに鉛筆を動かしはじめた。
「一つ、不思議に思っていたことがあるんだけど」
 頃合いをみて拓見は切り出した。昭義が何も言わないので、そのまま続ける。
「父さんは、どうして僕を抱く気になったの? 父さんには、そっちのケはないんでしょ? なのにどうして、男の僕を……僕が母さんに似てて、あんまり男らしくなかったから?」
 答えはなかなか返ってこなかった。だが結局、昭義は口を開いた。
「いまとなっては」
 昭義は、一語一語噛みしめるように言った。
「いまとなっては、自分でもよくわからない。俺は市村のことを、いい友人だと思っていた。友人として、たしかにとても好きだった」
 昭義がスケッチブックを持ちかえ、出来栄えを確認する気配がした。しばらくすると、ふたたび鉛筆の走る音が聞こえはじめた。
「俺はその気持ちを、ずっと友情だと信じてきた。いまも信じている。でも……ひょっとしたら、何か別のものだったのかもしれないと思うときもある。……市村の身代わりとして、俺は美也子を愛したのじゃないのかとね。俺は……」
 一瞬言葉がとぎれる。
「俺は型にはまった、融通のきかない人間なんだ。自分がつねに正しく、つねに完璧でなければ許せなかった。だから……自分が同性の市村に惹かれていることを認めるのが嫌で、美也子を好きだと思いこもうとしたのかもしれない。でも――」
 拓見は昭義の、射貫くような視線を感じた。
「拓見……俺はおまえを抱いたとき、たぶん美也子のことも、市村のことも考えてはいなかった。それだけは本当だ」
「そう……」
 拓見は言った。
「ありがとう」
 どうしてそんなことを言ったのか、拓見は自分でもわからなかった。だがこの場にふさわしい言葉だと思った。するとつぎの言葉が、流れるようにしぜんに口から出た。
「十五年もたったら、記憶なんてあんまりあてにならないよね。夏といってもけっこう長いし」
 昭義は動揺を表さなかった。
「それとも、僕の誕生日のほうが違うのかな?」
 拓見は昭義の方に向きなおった。昭義はスケッチする手をとめ、まっすぐ拓見の顔を見つめた。
「流産の話は、嘘なんでしょ? 事件の起こったのは夏だった。でも、それが何月のことだったかなんて、もう覚えていないだろう。そう思って、父さんはあんなことを言ったんだね。同じ夏でも、それが八月の終わりなら話は違ってくる。そうでしょう?」
 反論がないことを確かめて、拓見は続けた。
「妊娠期間って、人によってだいぶ違うんだってね。それに、出生届って、親が出すものだよね。詳しくはわからないけど、そのときに日付をごまかせるんじゃないかな。四月一日生まれを二日で届けたとかいう話、聞いたことがある」
 拓見は一呼吸おいて言った。
「僕は、やっぱり市村先生の子供なんだね」
 昭義は穏やかな目でじっと拓見を見つめていた。拓見も黙ってその目を見つめかえした。
 やがて昭義が、静かに言った。
「そうだとしたら、どうするんだ?」
 拓見は答えなかった。
 彼は少し恐れていた。他人の子――それも、兄と妹の間にできた望まれない子供に対し、目の前の男がどういう感情をいだいてきたかを。そしていま、どう思っているかを。
 あの晩、昭義に歯を立ててみて、拓見は悟ったのだ。噛むということは、愛情を象徴する行為だった。そして同時に、自分がいだいているもろもろの感情を――恐れや怒りや憎しみといった負の感情さえも――すべて《愛》というものに昇華するための行為だった。
 だがとうとう拓見は、口元を微笑みの形にして言った。
「僕は、父さんのことが好きだよ」
 それから急に恥ずかしくなり、さっと後ろを向いてポーズをとりなおした。
 背後で、昭義が身動きする物音がした。数秒後、何事もなかったように、また鉛筆が紙の上を滑る音が聞こえだした。
「ねえ」
 暗くなりはじめた窓の外を見ながら、拓見は言った。
「進路の話だけど、K高校を狙ってみようかと思うんだ。そこって、美術部がけっこう有名なんだって――」


【完】
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まろやか連載小説 1.41